「大工道具をひもとく」 ~はじめに~ 

第一形式:179点、第二形式: 73点 この数は何だと思われますか?電動の工具が一般的ではなかったころに、家を一軒建てるのに大工が使った道具の数です。昭和18年~終戦時に掛けて調査が行われ、昭和24年に労働科学研究所から「わが国大工の工作技術に関する研究」としてまとめられたものです。必要にして充分な大工道具の編成は179点、どんな安普請をする場合でも必ずそろえておかなければならないもの73点とのことです。(竹中大工道具館調べでは72点)安普請は仕上げに使う道具が少ないということが第一形式と第二形式の差です。私たちも現場で大工がたくさんの道具を使い分けているのは見ていますが、こんなに多数のものを使い分けているというのは知りませんでした。もちろん、現在は電動の工具が主流になってきているので、この数ほどではないでしょうが、仕上げは大工が手を入れているので私たちが思っている以上に、今も多くの道具を使い分けているのかもしれません。(この辺りは一度現場で確認したいと思っています。)

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竹中大工道具館に展示されていた大工道具
建築物を作るには道具が必要である、という当たり前のことを私自身は当たり前すぎて考えることがありませんでしたが、今回新神戸駅にほど近い「竹中大工道具館」を訪れて興味を覚え少し調べてみました。この内容は「水彩画で綴る大工道具物語」朝倉書店と岩波新書の「大工道具の歴史」村松貞次郎著を参考にしています。
木を伐採する道具がまずあって、木を加工する道具の発達とともに建物の精度があがっていきます。旧石器時代「握斧(にぎりおの)」という石を少し加工して直接手で握って使う道具から、縄文時代になって磨製石器に木の柄をつけた石斧(せきふ)をつかうようになります。

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手前が石斧、奥が鉄斧(竹中大工道具館展示)
この石斧は木の繊維をたたきつぶすという感じですが、木の伐採ができるようになり、6000年前には平地に大型の建築が、4000年前には高床式の建築物も作られています。

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釿(ちょうな)と鉇(やりがんな) 表面の仕上がりが違う

稲作とともに鉄の文化が朝鮮半島から伝わってきた弥生時代には鉄斧・鉄鑿(のみ)・鉇(やりがんな)などの道具によって木材の加工技術が飛躍的に向上し、利用できる樹種も増えました。鉄斧では木の繊維を切断できるようになり、枘(ほぞ)・渡りあご・貫(ぬき)など今日にもつながる加工が行われるようになりました。

4世紀・5世紀には大和朝廷と朝鮮半島との交流は、鉄の素材だけではなく、優秀な技術者も渡来し、6世紀の古墳からは斧・釿(ちょうな)・鑿・鉇(やりがんな)・錐・金槌・鉄鋸などたくさんの種類の道具が出土しています。このような道具を使って寺工といわれる技術者は礎石の上に柱を立てて構築するという新しい技術を使いこなして伽藍などを建てています。当時の辞書「新撰字鏡(しんせんじきょう)」には道具の名称や用途が記されていますが、墨壺・墨芯(すみさし)・曲尺(さしがね)
準縄(みずばかり)なども見ることができ、これらは現在の現場でも必要不可欠なものです。現存する最も古いと言われる法隆寺もこのような道具を駆使して造られています。ところで、使われて消耗し、無くなっていくということが道具の宿命ですが、古い道具の形や使い方がこれほど分かってきているというのは何が資料になっているのでしょうか?今回はここまでですが、また少しずつ調べてお知らせしたいと思います。